高知県は宿毛市にある旧日本海軍【宿毛基地跡】へDECO-PONスタッフが潜入。
宿毛湾は、1933年(昭和8年)頃より海軍基地として重要視されました。というのも、この宿毛湾、水深が非常に深く、大型の船が出入りするのに良い立地だったようです。
世界最強と云われた「戦艦大和」が試験運航したのも、この宿毛基地だったそう。
大艦隊の停泊が可能な宿毛湾。訓練、休養を支える基地として活用されました。
といことで、現場レポートをはじめようと思います。
まず、基地跡で有名なのが、この【弾薬庫跡】。ツタで覆われた壁!!ただならぬ存在感を放ってます!!
大量のツタで覆われて、わかりにくいですが構造は頑丈なコンクリート。
もちろん、弾薬などの危険物を貯蔵していたので、不燃性のコンクリートを使用してるそうです。
そして地元の方に許可を得て、内部へ潜入!!!
私有地として内部は「畜舎」に改造され、どうやら今は畜舎としても機能してなく、ものけの殻。その痕跡だけを伺うことができました。それともお休み中かな?
弾薬庫跡の潜入を経て、他の基地痕跡捜索で行き詰まりを感じてた頃。近隣の住民に聞き取り調査。
そして、夕ごはん時にもかかわらず親切なおじさんが次の基地跡へ案内してくれました。
実際、おじさんのもう一つ上の世代の人達が戦争経験者で、戦時中の基地を知る方々は、ほとんど亡くなってしまったそう。
話によると、当時の事をもっと多くの人に知ってほしいと、弾薬庫の案内板とかも最近つけられたようですね。
そして次の基地痕跡は【貯油庫跡】!!!!
この遺構はその名のとおり「貯油庫」として、航空機のガソリンや、艦艇用の重油などを保存していたガスタンクだそうです。
一階が油槽庫で、二階がトンネルのような構造。
さっそくトンネルに潜入!!!!
その予想を超えるデカさ!!高さ10m幅は6mほどで長さは50~60mくらいかな。
当時、このトンネル内では、クレーンで水上機や水雷艇を釣り上げてきて給油や整備してたようです。トンネルの構造になっているのは、防空壕の役目も兼ね備えてるみたいですね。
さらに、トンネルの先にも「壕」があるという事で、近状のおじさんが案内してくれました。
トンネルを抜けると、 ちっさな果樹園が広がり、そこから見たトンネルもまた違った雰囲気を醸しだしてます。
案内人のおじさんは、トンネルで待機・・・
そこから指示をうけ、我々は山中の壕へと潜入!!!!
薄暗い山中に、わかりにくいですが確かに「壕」はありました。
土砂で埋まり、現在は人一人ギリギリ入れるスペースでしょうか・・・むしろ動物の巣のようです。
さすがに、この内部は命の危険性があるので潜入は無理でありました。
この付近には、こういった「壕」はあちらこちらに張りめぐらされてるそうです。
海岸沿いに戻ると、その痕跡も発見できます。
次のに案内してもらったのが、この宿毛基地跡でもっとも悲惨な逸話のある【魚雷艇庫跡】。
名称としては【魚雷艇庫】なのですが、それは戦争に余裕があった頃の名前。
実際は、終戦前に【震洋】という特攻用モーターボートの壕として使用されていた場所です。
≪この、【震洋】について少し歴史を紐解いていきたいと思います。≫
この特攻艇【震洋】、、、、、非常に恐ろしいものでした。
兵士が操縦して、敵艦に体当たりするという、「捨て身の兵器」…。
なんと…ベニヤ板製の粗末なモーターボートの舳先(へさき)に250キロ〜300キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たりする兵器。
時速約50キロ、1人乗りで、のちに2人乗りが作られました。その『震洋』に積まれた爆薬も、この弾薬庫にあったと思うとなんとも言葉が…出ません。。。20代の若者が粗悪な艇で死んでいったこと。。。。
戦争後半には、この宿毛基地は晩年、特攻艇【震洋】の基地として機能してたようです。
【魚雷艇庫】のみならず、恐らくあちらこちらにある「壕」も【震洋】の特攻用モーターボートの壕として使われていたんではないでしょうか。
こちらが、最後に案内された海にもっとも近い「壕」です。
他にも、高知県宿毛市宇須々木(うすすき)は、割と多く戦争を物語るものが残ってるそうです。
ディープな話でしたが、戦争の悲惨さや歴史を再認識する為にも、こういった基地跡を訪れるのも大事だな。とおもいました。
記/ 野菜ぱくぱく (2014.08.08)